Sunday, March 4, 2007

音楽生活50年日本暮らし36年


息子に言われましてBLOGを書く様になりました。
英語版ありますが女房に怒られて日本語版もこれから書きます
時々娘と息子と共にコン
サート致します。楽しいです。
今月6日奈良でディナーショーは3人で行います。
場所はホテル日航飛天の間です
3人揃って演奏するのは難しいです。
二人とも忙しいですので。
さらに娘は関東そして息子は自分のライブと店もやっているので我々は中々合わせるのは大変です。
以前本を書く積もりでしたがBLOGの方が早いと睨んでこれから僕の音楽と僕の人生を皆さんの為に語ることになりました。これからお付き合い頂ける様に
宜しくお願い致します。
クロード チアリ


2005年に書いたものです

Introduction

日本で暮らして30年、本当に早いものでした。初めて演奏のためやって来たのは1967年。その後毎年コンサート行っていた。最初の頃、日本語は分からないで、思い切って覚える様に頑張ったわけで、3回目の滞在辺りから少しずつ喋る様になって、舞台でも日本語を使える様に成りました。

当時フランスで住んでいましたが、1973年からタヒチで暮らそうと決めて、移動しました。

あれから2年程タヒチで暮らしながら色んな国で演奏し、日本も必ずスケジュールに含まれていた。1975年コンサートツアーの時、大阪で一人の女性に紹介されまして、僕の人生は180度以上変わってしまいました。一目ぼれと言う話はよくありますが、まさか自分でこう言う事になるとは思っていなかった。

四月にタヒチへ帰る前に彼女にチケットをわたしまして“貴方を待っている”と言って飛行機に乗りました。

タヒチに着いたら、来ないじゃないかと思って、次の日本行きの便に乗りまして大阪に到着し、電話してみたら彼女はビックリしました。

戻って良かったと思いますよ。彼女は遠慮して、こんな高いチケットを戴くわけはいかないと思っていて、送り返す積もりだった様です。

その後パリまで連れて両親に紹介し、9月19日に結婚しました。めでたしめでたしと思うでしょう。さーこれから大変!当時の日本の法律との戦いの始まりであった。

先ず、仕事は音楽で、ビザは1年間の間、半年しか貰えない。更にフランス国籍だった為に、女房の名前はチアリでなく、矢田のまま等、わけの判らない問題の連発でした。

ハッキリ申し上げて切れてしまいました。娘が生まれて、そして息子も生まれて,思い切って、フランス国籍から日本国籍に変わろうとしました。それまで当時菱屋(ネクタイで有名)の岡部会長のお陰でまともなビザを頂き3年以上の滞在と言う条件はクリアーし、申し込みをしました。

手続きは複雑で、色々と聞かれて、書類必ず一枚足りない現象、喧嘩の連発、結局1985年無事に日本国籍を手にしました。

最初の頃、一生懸命日本語や漢字の勉強もしていたが、20年以上コンピューター使っている為に、漢字は読んでも書けない状態になってしまった。

まーいいか。

31歳になって、一から言葉や漢字、そして、しきたりを覚えるのは大変です。でも色んな意味で、とってもプラスになりました。

今は問題ないですが、1975年、音楽を日本発信で全世界に自分の曲を生かせるのは無理でした。結果的にフランス時代の45か国の市場が暫く消えてしまい、運よくインターネットのお陰で10年程前から復活が出来ました。

これから、この30年間の私のいきさつを語ってみますので、ごゆっくりとお付き合い下さい。

Chapter 1

1967年

Part 1

La Playa (夜霧のしのびあいが発売されて3年、レコード会社から連絡をいただき、地中海クラブの船に乗って、横浜からマルセイーユーまでとの話でした。

勿論パリから羽田までは飛行機で参りますが帰りは船で45日間掛かります。

当時、まだ23歳で船旅が大好き、さらに日本の事知りたい、そして仕事より遊びと言う生き方でした。

今ならとっても出来ないですよね。一ヵ月半、仕事をおいといて海外旅行何って、考えられない。

とりあえずパリから羽田そして、ホテルで一休み。明くる日、朝ご飯を注文し、日本にいると完全に忘れていて、フランス語で頼んで、通じない為に英語でやり直し、注文の内容は:クロワッサン、café au laitミルク入りのコーヒー)バターなど。

30分後、出て来たのは何と和食。フランス生まれフランス育ちの私には全然あわないよ。

味噌汁やご飯など、朝から、無理だ。

急須があったので、早速紅茶を飲んでコーヒーショップでやり直そうと考えて、お湯のみに入れてみると変な色だなぁ。かなり薄い。お盆をも一回チェックして、葉っぱがありました。

成るほど、日本人は薄い紅茶好んでいるわけで、濃くするためにこの葉っぱは置いてある。

急須の蓋を外して葉っぱを細かく潰して、入れて、益々変な匂いが出てきて、あの葉っぱですが、海苔でした。

これは僕と日本の最初の出会い、しかも忘れられない出来事であった。

東京から横浜へ移動し、船に乗り、当時のレコード会社東芝EMIからお客さんが尋ねて来る。

写真とったり、話をしたり、日本でのコンサートの予定色々でした。日本からフランスまでの船旅を説明するのには本も一冊が必要になりますので次に参りたいと思います。

Part 2

パリに戻ってTVやRadio、演奏など再開し、日本でのコンサートの問い合わせがありました。

同じ年に再び日本までやってきた。今度はコンサートの為でして、2週間程の全国ツアー。それまで一人で2時間を演奏する経験がなくて、最初は大変でした。

一回目のツアーのバンドはイタリア人でして、楽しい人たちで、良い思い出になりました。

その後、バンドは日本人のバンドで、演奏しにくる度に日本語はよくなってきて、かなり通じるようになりました。

1968年八戸でコンサート済まして、明くる朝6,5の地震が発生し、仙台での演奏には間に合わず、東京へ戻りました。

初めての経験でしたので、恐ろしかった。でもそれよりも驚いたのは別の出来事です。

前の晩コンサートの後日本酒が好きと聞いた一人の方が“明日ホテルまで持って行きます”と言われました。

まさか、こんな状況で約束を守る事が出来るわけないと思っていたが、この方は地震の後、約束どおり日本酒を持ってきました。何と義理堅いと言うか、素晴らしいと言うか、本当に心に残った一つの思い出です。

1969年日本でのツアーは無かった。個人的な問題でギターや芸能界を辞める積もりで、

3ヶ月程コルシカ島に滞在し、秋にパリへ戻って、説得されて、ギター再開。

その後毎年日本でコンサートが行っていて、一年間の間、一番楽しみにしていたひと時でした。

1973年フランスからタヒチに移ります

暖かい島で、綺麗な海、のんびり暮らしている日々でした。ダイビングはタヒチで覚えました。サンゴや鮮やかな色の魚たまにはサメ、でも眠りザメと呼ばれて、意外と大人しい魚です。と言われてもあまりにも安心してしまうと保証出来ませんね。

子供の頃から海や暖かいところが大好きで、タヒチは私にぴったりでした。

なにせ、南フランスのニース生まれなもんで、肌に合うのは当然ですよ。

丘の上の家、海が見えて、幸せでした。

考えてみると今でも、丘の上の家、海が見えて、タヒチでなく、苦楽園で暮らしているが、幸せです。

1974年タヒチからアルゼンチンへの演奏

東京からリマ、リマで乗り換えてリマからブエノスアイレスと言う予定だったんですが、東京の担当の手違いでこの空港では人を乗せられないと言われて暴れてしまう。

エアーフランスの現地の女性が話しを聞いて助けてくれた。

問題はジェット機でなくパラグアイエアーラインのプロベラ機に乗ったために、到着は12時間以上遅れました。

アルゼンチンでは約束の時間どおりに現れると失礼に当たると聞いていたが、僕の為のウェルカムパーティーに間に合わないで、12時間以上送れて行ったのは物凄く丁寧でしたね。

レコード会社と無事に連絡とれまして、説明しました。素晴らしい滞在でした。

牧場でバーベキューパーティー、ポロ用の馬に乗ってみたり、皆さんは本当に明るい方々ばっかりでした。空港まで送っていただいた時に、皆さんの目に何となく涙があったように見えました。

仕事を終えて、10日後にオスロへ向かって行きました。

着ていたジャケットは薄い皮の物で、タヒチもブエノスアイレスも暖かいですので、安心していたわけです。

オスロに着いた時に四月でも、寒くって、雪が積もっていた。薄いジャケットでは話になりません。皆さん、旅に出かける前に気象の状況をちゃんと調べましょう。

Part 3

タヒチから日本での1975年のツアー

タヒチで住んで居た頃、地中海クラブの村へ度々遊び行っていた。

モレア島にありまして、小さい飛行機で10分掛からない。

残念ながらこの素晴らしい村は無くなったようです。

いつものように遊びに行きましたのですが、滞在の途中で不思議な西洋人が現れた。日本語も英語もフランス語もぺらぺら、若い日本の女性と一緒でした。東京行きのチケットをPapeeteまで買いに行く時に、この人は同じ小型機に乗っていた。さらに航空会社にもいた。

東京行きの飛行機乗って、ハワイで5時間ぐらい空いていたので、空港のホテルで部屋を借りた。あの人はまた、ロビーにいた。

普段は知らない人には声をかけないですがあまりにも不思議で思わず彼に言いました。

“申しわけないですが突然声を掛けるのは失礼だと思いますが、10時間以上、あち、こちで、バッタリ合いまして、英語もフランス語も日本語もぺらぺらで、どこの方でしょうか“。

彼はニコッと笑って“実は私も同じことを思っていたので声をかけるところでした”と続けて“私は半分スペインとロシア系でアメリカ国籍です、ビックリなさったでしょう”

僕は“そうですか、でもビックリしておりませんので、私は半分イタリアとロシア系でフランス国籍です”。

お互いに大笑いで、例の日本の女性が出てきて、僕の顔を見て、サインして下さいと言われて、彼はビックリしてしまった。

-?どんな仕事をなさっているでしょうか?音楽家です、主にギターコンサートです。

お住まいは東京か大阪でしたら演奏を聞きに来て下さい。

お互いの連絡先を交換し、東京に向かった。

Chapter

1975年

東京に着いて全国ツアーに入りました。40箇所以上だったと思います。

大阪でのコンサートはフェスティバルホールでした。

演奏の後ボリスさんが楽屋まで顔を出して“良かったらお食事ご一緒に如何”

喜んでと申し上げてレストランへ行きました。

彼は宝石や真珠関係でしたのでモデルさんの知り合いが多かった様です。

“これから相談したいと言う女性と会いますが,モデルさんで半分白系ロシアと日本の子です。”

大阪北新地のクラブに着きましてレストランとディスコにもなっていた。注文してから間もなく例の女性が現れた。可愛い子だなぁと思った。紹介されて、色々とお話しながら、時間が過ぎてしまった。ボリスをタクシー乗り場まで送って、一人でレストランまで戻りまして,彼女の席へ行きました。

“暫くでした”と笑いながら言いまして、さらに “お邪魔してもよろしいですか“と一言加えて、座りました。

その瞬間から僕の人生が180度変わってしまいました。その後タヒチへ戻るまで付き合っていた、そして帰る前の日にタヒチ行きのチケットをジェーンにわたしました。(妻です。)

別れるのは辛かった、彼女も泣いていた様で手紙をくれて、飛行機に乗ってから読んでくださいと言われた。

愛が溢れる手紙でした。今でもこの手紙を大事に持っております。

タヒチに到着後早速電話をいれただが、当時電話と言うより無線だったので、電波が悪くて聞き取りにくい状態だった。

でもなんとなく、様子が思わしくないと感じた為に着いたばかりなのに、次の日本行きの便に乗ってしまった。

映画みたいだろう。彼女はいないから寂しいではなくて、酸素が切れて、息が出来ないと言う状態だった。

羽田に着いて東京駅へ向かった。東京から神戸の切符を買って、電車に乗りました。

しばらく休んで神戸に着いたらジェーンに電話した。

今日は良く聞こえると言われて“そらそうよ、今神戸だもん”へ??はい、神戸まで来ているよ。彼女は勿論飛んできた。こんな幸せそうな顔それまでみたこともなかった。

あれから今日まで30年間ずっと一緒。

あの時タヒチから戻ってよかった。チケットを送り返す積もりにしていたわけです。

こんな高いものをいただくわけはいけないと思っていた様で遠慮していた。

当時ジェーンは29歳、私は31歳でした。しばらくの間日本に滞在し、次ぎはタヒチまで連れて行きまして、最終的にパリまで参りまして、両親に紹介した。

お袋はなんと、それまで、彼女の口から出たことのない発言を耳にした。

“彼女なら大丈夫だ”驚いた!二十歳の頃から女性のことで文句しか言ったことない、お袋が”彼女なら大丈夫“と言ってくれた。

9月に両親も連れて、日本に戻りまして、結婚式をあげた。東京では神前結婚(明治神宮)で神戸の場合、女房の教会で新たな式が行いました。ジェーンはロシア政教ですので。

東京の式の時、テレビの番組、スター千一夜の撮影があったために、神主は緊張気味でした。

まだ若い人で、指輪の時間が来ました。そこでロシア正教の場合、リングは左手でなく、右手なのです。カメラはズームイン、神主は慌てて“左、左”僕はニコッと笑って“右、右”と答えて、彼は困っていた。かわいそうに、真っ青でしたよ!最終的に右手にお互いの指輪をはめて、その後彼に説明ちゃんとしましたが、ショックだったみたいね。

女房はタヒチやパリでは暮らしたくない気持ちでしたので、僕は(人が良過ぎて)じゃ、日本で暮らしましょうと言ってしまった。さー大変!日本のこれらの法律を知らずに決めたために、偉い目にあいました。

1976

日本からパリまでOLYMPIA劇場でのコンサート,”日本の心“を企画いたしまして、木の実ナナさんや、宮川先生(音楽家)そして、少林寺拳法の仲間を連れて、日本の事をわずかながら紹介いたしました。

自腹を切って、やったので、けして、利益が出たわけではないものでした。

自己満足にすぎないと言われても無理もないでしょうが、後悔はしておりません。

Radioやテレビ等も、多かったし、僕の選んだ国のことも少しながら紹介できたし、損得は関係ないと思って、日本へ戻って、新しい人生が始まりました。

Chapter

Part 1

今、現在日本国籍を持って、日本で暮らしているのは岡部会長のお陰です。

数年前亡くなられましたが、日本では僕の親父と同じぐらい大きな存在でした。

知り合ったのは菱屋のネクタイのコマーシャルの撮影の時でして、あれから奥様とも家族的な付き合いになりました。

ビザの問題で法務局や法務省との揉め事絶えず、会長にご相談してみたら、全ての手続きや保証までしていただき、さらに、私の一筆足しまして(内容は今まで音楽家として生きてきたのでそれを変えるつもりは御座いません)無事にビザを貰いました。

気になっていた問題は女房の名前をチアリにすること、そして子供の将来のことなど。

全て解決するためには帰化しかないと考えて、思い切って決心しました。

フランス関係や両親も困っていたようですが、僕の決断はかたかった。でもこれもまた大変でしたよ。

次々と書類を要求して必ず一枚が足りない現象、何となく諦めさせる様な雰囲気でした。

全部揃ったと思えば信じられない書類の名前が出て来た。国籍証明書、一体何ですかこれは。パスポートはそうではないですか?どうしてもその書類が必要とシツコク言われて

領事館や大使館に聞いても誰も知らない。たまたま僕の叔母さんがパリの最高裁判所に勤めていたために、偶然例の書類はそこで発行されていたと分かりまして、やっと手に入れた。

全て揃いました、100%ですよ。で、何と言われたと思いますか?申請するためにはご自分の国籍を無くさないと受け付けることは出来ません。貴方たち、人を馬鹿にしているのか?

無国籍になれだと!悪いけどフランスには法律があって別の国籍をもらってからでないと国籍は消えません。どういう事じゃ。もうえぇ。明日から記者会見で説明する。

つまり、帰化できる様になっているが、実際出来ないように工夫しているわけですね、と怒って帰りました。その直後事務所に連絡があって、結局帰化は認められた。

1985年でした。法務局まで書類など取りに行ったら皆さんは心から喜んで居られた。

結局彼らも帰化さしたくないわけではなく、固い法律に縛られてどうにもならない時代でした。

今はもっと簡単に出来る様になったと聞いております。さらに以前、お父さんは日本人であれば子供は自動的に日本国籍与えるとのことでしたが、お母さんだけは日本人であれば子供には国籍が与えない。これも、運よく変わりました。

Part 2

1982年

日本で暮らして7年目。コンサートやテレビなど結構忙しい毎日を送っていた。ある日,家へ戻りましてテレビをつけたらコマーシャルが流れました。

貴方にも出来る,ポケットコンピューター、あれ、僕の時代では化け物の様なマシンでポケットに入るわけがないと思いましたが,興味があって買ってみた。シャープPC1500,確かにおもちゃだった。でも長年コンピューター触らずに暮らしていたが,これでまたコンピューター病に掛かりました。次はアメリカで発売された、最初のパソコン,手に入れて次々とソフトを探したり、時々ソフトを作ったりそして、アメリカのネットワークに入会しました。

The Sourceでした。友達は沢山増えまして、アメリカのSYSOPやプログラマーとも交流が多くなってそして当時、日本からアクセスしていた僅かの皆さんとも仲良くなりました。

アメリカのPCの場合日本語入力できない、漢字も読めない時代だったので、NECのマシンも買いました。市場の日本語ソフトは本当にお粗末でして、ビックリしました。

アメリカではSHAREWAREやFREEWAREも沢山ありましたし、作り方もオーペンで、レベルは全然違っていた。その後KDDや他の通信関係から依頼があって、いつのまにか、アドバイザーの様なものになりました。

ある日、事務所に電話がありまして“NHKの方です”と言われて、なら貴方たちの仕事だろう。“いえ、いえ、コンピューターのことでして”うむ?まー聞いてみましょう。“突然の電話で申しわけないですがPANと言うネットワークに入れないですので、どうすればいいでしょう”え?それはアメリカの担当に聞いた方が良いでしょう。

“はい、でも向こうはクロード チアリに聞いて下さいと言われました”あれ???調べてみたらその担当は一人のアメリカの友達だった。

そこからNHKの方と仲良くなりまして、面白い通信ソフトがあれば彼に紹介して、2年後、彼の紹介でNECの皆さんが突然うちまでやってきた。

1987年でした。

全責任者と数人が現れて、やっていること(コンピューター関係)是非とも見せていただきたいと、二、三時間程色々と見せたり、説明したり、お帰りになる前に全責任者は言いました。“PC-VANと言う新しい日本のネットワークが出来ましたので,是非ともお力貸していただきたい”。

有難いお言葉ですが私はコンサートや作曲さらにお芝居で大変忙しいですので、無理でしょう。“そこで何とか”と、また、頼まれて、僕は以前申し上げた様に人が良いですから、しまいに断れ切れなかった。

手前味噌ですが、はいと言った瞬間、日本のコンピューター市場のため、大進歩の大一歩であった。

PC-VANの中のチアリSIGが生まれました。最初の頃お芝居の楽屋とホテルの部屋にも電話の臨時線を付けてもらって、舞台の出番の間にソフトを送信したり、ホテルに戻ると送信したり、手作りでした。

数年間頑張って、日本ではトップネットになりました。ピークの時、全国のユーザーの皆さんのアクセス時間は40万時間越えていた。色々とありましてさらに、時代の流れとインターネットの誕生と共に、PC-VANもチアリSIGも消えました。

でも、素晴らしい8年間であった。通信の草の根から強大的なメティァになりましたね。

今、何方でもコンピューター使って、インターネットに接続する時代になり、子供、大人

誰でも電話のようにパソコンを使用している。

私は20年程前、予言していた通りになりました。

Part 3

1989年、参議院選挙に出馬

女房や子供そして仕事関係の方々に大変な迷惑を掛けてしまった。

事情分からずに参議院選挙に出馬し、テレビや11年間DJしていたFM大阪の番組など駄目になり、おまけに子達までビラを配ったり、本当に申しわけないと思っている。

当選しても何にも出来ない構造になっている。あの国会議事堂の一年生では無理ですね。

でも、これから時代は絶対に変わります。

アメリカでは日系人が参議院になっている、ならば、いずれ、日本生まれ、日本育ちの白人も議院になっても、可笑しくないでしょう。

実現が出来たら、間違いなく、日本のためになるであろう。

当時、一票入れていただいた皆さんにも謝らないといけないですね。

出馬したこと自体に関しましては後悔しておりませんが、あまりいい思い出ではないですので、外人ブームの話に移りたいと思います。

クイズ番組、あいあいゲーム

クイズ番組、あいあいゲーム覚えておられますか?山城信吾さんは司会で僕もレギュラーでした。

面白い漢字を書いたり哀愁のギタリストからウクレレ漫談になってしまった。

反面全国的に顔が売れましたが反面、イメージがかなり狂ってしまいました。

6年間参加いたしまして、大変楽しかったが、そろそろ音楽の道に戻らないとマズイと思いまして、番組からおりました。

やっている間に、わざと面白い漢字をえらんで、回答しておりました。あの時、漢字はバリバリでしたよ。

番組の影響が凄かった。多局は面白い外人を探して、テレビ局が次々と外国の皆さんを使えるようになりました。

外人ブームの元はどうも、私だったみたいね。

日本語を上達した理由は三つだと思います。

一つ 11年間FM大阪でDJし

一つ 何回か舞台でお芝居し

一つ 日本社会に溶け込んだ事。

度々、日本で暮らしていても、日本の中でなく、日本の横で暮らしている人が多いです。

外人村現象と申し上げましょうか。同時にアメリカで3年滞在しても、一度も英語を使ったことがないと言う知り合いがいました。

その国やその人の気持ちと心を理解できるために、交流も溶け込むこともが必要だと思います。

日本ではハッキリものを言っては失礼だそうですが、外交面ではそのせいで下手ですね。

西洋人の皆さんには何時も言っておりますが“言われていることを聞くではなくって、言われていないことをよく聞いて下さい”

皆さんには気が付かないと思います。当然ですよね、日本生まれ、日本育ちだもん。

本音とたてまえ、これもいかにも日本ならではの話です。便利と言えば便利です。

だって、角がたたない。例えば、大嫌いなかたと街角で会っても“何時もお世話になっております、今後ともよろしくお願いいたします”と言いながら、腹の中で“殺してやりたい”と思ったりする場合も御座いましょう。

美学なのか?素晴らしい。

でも、私は心からこの国を愛している。最初の頃から気持ちは変わってない。

不思議なことが御座いまして、海外から帰ってくるとホットする。例えフランスから帰ってきても同じです。

安心すると言うか、落ち着くとい言うか、やっぱり僕は完全に日本人になったようですね。

Chapter 4

子育ち

1976年、娘が早生まれで女房は大変苦しんで産んだ。産んでからしばらくして、頭が痛くて病院の話しを聞いたら、お産の時に少しだけ脳に出血があり検査は必要です、でも危ない検査ですのでご了承ください。

危ない?どの程度危ないですか?場合によって亡くなる患者もおられますが。

これを聞いて崩れてしまった。その日にツアーに入る為に、北海道へ行くところでした。

女房の部屋へ行きまして、涙見せては行けないと精一杯笑顔をみせて“大丈夫ですよ、検査は必要だけど。大丈夫ですよ”。

彼女の可愛い顔、疲れた顔を見つめて、“心配しないで、北海道から戻ったら、元気になっている筈、愛している”。

部屋から出て思いっきり泣きました。毎日コンサートしても心配でたまらなかった。

札幌から旭川の途中に、鶴公園があります。車で通って行くと鶴が近づく。

運転していたコンサートの主催者は“これは絶対にいいお知らせの印です。間違いなくお奥さんは元気になる。”

その晩コンサートの途中で、舞台の袖からマネージャーがニコニコして、手を振っている。

休憩に入る前でしたので幕が下りたら、“病院から電話があって、お奥さんは大丈夫です!”

嬉しかった。当然ながら、二部の演奏は抜群によかった。

1979年、女房は病院に居ります。間もなく息子が生まれる。今回は早生まれでなく若干遅れている。落ち着かないから病院まで走っている。8月ですので暑い。

病院に着いたら看護婦さんが“元気な男の子が生まれましたよ!”

息子も僕もこの病院に同時についたわけです。

二回目のお産はうんと楽だったようです。まー、男性ですからお産の苦しみは分かりませんので、それにしても女性って大変ですね。

娘は日本の幼稚園にいかしましたが、途中から国際学校に切り替えた。息子の場合、最初から国際学校でした。

最初は娘が苦労したようです。それまで学校は日本語だったのに、突然英語になって、全然分からない日々の連発でした。でも二人とも国際学校でよかったと思います。

色んな国の子供たちと一緒に勉強し、お互いの国のことや気持ちを理解し、今、大人になっても、海外から友人たちが日本に戻る度に、付き合っている。

みんな、英語や日本語そして、自分の国の言葉を喋れて、素晴らしい財産です。

彼らは平和のための素晴らしい人材だと思います。

今年の2月11日、61歳になりました。考えてみると私の人生の半分は日本暮らし、運命って、不思議なもんですね。

Chapter

阪神淡路大震災

1995年1月17日5時45分

突然22秒の間、地獄を見た。

恐ろしい音、信じられない揺れ、トラックが家に突っ込んできたのか、分かりません。横揺れでなく、立揺れ、正にジェットコースターの世界、はぁ、地震だ!女房には大丈夫と言いながら、自分自身は“本当に大丈夫かなぁ”と心の中思っているところでした。

22秒ってこんなに長いとは思っていなかった。おさまったところで子達が飛んできた。

二人ともけがはない、女房も大丈夫みたい。でも、後で分かりましたが、彼女だけは肋骨にひびがあったようです。

僕も大丈夫みたい!余震が発生してきた、前よりちょっとマシでもまだまだキツイです。

女房はリビングへ行きたいと言い出して、子供とぼくは女房を止める。停電でしたが電気は何故か戻った。まわりの家は全て停電のままだったのに。

下へ降りてみると裸足では歩けない、何もかも潰れている、外からガスの臭いがしてきた。

携帯電話が通じました。両親と喋って、心配しないで大丈夫と伝えて、状況を確かめる。

リビング、キッチン、2階の部屋も全てめちゃくちゃです。3階のドアは開かない、コンピュータールームの中から変な音がする。

電話は通じなくなりました。水道もガスも破裂してしまいました。冷蔵庫から食料や飲み物が飛んでしまって、器やカップなど割れてしまいました。家も僅かながら傾いているようです。

隣人の皆さんの無事を確認して、車で少し走ってみると酷い風景です。空爆されたような状況、道も建物も潰れていて、電子柱も倒れてしまって、真っ直ぐになっている物は一つもありません。

今でも思い出すと心が痛みます。

その後お互いに助け合って、力合わせて、回復が出来るまで時間は掛かりましたが、10年後、悪夢だったのかと思うぐらい、景色は元通りになりました。

地震の後のことを細かく語れば、本をもう一冊書かないと間に合いませんので、次に参ります。

少林寺拳法との出会い

1976年に戻ります。女房と結婚する前に、泊まっていたホテルの本屋さんに少林寺拳法の本を見つけた。1975年のツアーの時でした。10年以上空手をやっておりまして、

興味があったわけです。あの時いくら探しても道場は見つからないままで、諦めた。

1976年パリでのコンサートの時、女房との結婚のことで、平凡パンチの記者が集材しに来ました。たまたま、少林寺の話が、何故か、でました。あの方は少林寺と言う映画の集材のために多度津の本部を訪ねたことがあって、連絡先を分かっていた。

日本に戻って、神戸の道院長と連絡を取りまして、結局、西宮の道院を薦められた。

少林寺拳法の場合、道場と言わず、道院と言います。この字は正しいかどうか、自信がない。

担当は有馬先生と言う方でしたが、女房が電話入れたために、ご本人は女性でクロード チアリではなくて、黒戸智明と思ったらしい。

現れたのは日本の女性ではなく、この私でした。ご本人はビックリして、言葉はどうしたらいいのか、外人には教えたことはないし、と、顔に書いていた。

女房と一緒だったので、さらに僕も日本語が喋れると分かって、ホットなさったようでした。

あれから15年以上の付き合いの始まりでした。多度津には何回もかよったり、伝説的な官長先生とも、数回おあいしました。

帰化の申請の時にもお世話になりました。今でも有馬先生と剣士の皆さんと付き合っております。少林寺のお陰で素晴らしいこと、沢山身に付いて、今でも役に立ちます。

 

Chapter 6

スキューバ ダイビング

苦楽園の家。

タヒチに住んで居た頃、クラブメッドで、ほとんど毎日スキューバダイビングをやっておりました。

日本で暮らし出してから、それも消えてしまいました。ある日、熊本の結婚式場の方から依頼がありまして、熊本まで参りました。玉姫殿グループの一人の社長、安田さん、と出会いました。結婚式場を建てるのでヨーロッパ感覚でアドバイスが欲しいとのことでした。

魅力的、剣道五段そして船を持っておられて、ダイビングが大好きと言う方でした。

国内や海外で一緒に潜ったり、長年ダイビングから離れていた私に取っては最高に嬉しかった。結婚式場が完成し、僕は土地を手に入れました。家を建てる時に同じ建築家にお願いしまして、建設は安田社長に相談いたしました。この方のお陰で立派な家が出来ただけでなく、かなりお手ごろな値段で済みました。

出会いと言うのはなにより大事です。自分の力だけでは足りません、人の力を借りていけばなんでも出来る筈です。

人徳そして人に好かれる性格が必要だと思います。勿論、義理も必要です。お世話になった方々のことを忘れてはいけない。さらに、人を助けてあげると必ず返ってきます。

新しいギターとの出会

15年程前北海道のクラブメッド(サホロ)へ遊びに行きました。自分のギターを持って行ったので、僕のバンドとクラブのバンドとのミニコンサートをいたしまして、途中でギターの弦一本切れてしまった。僕の場合、10年一回ぐらい、起きることです。

後ろに弾いていたギタリストのギターを借りて演奏を続けて、驚いた。何と素晴らしい楽器だ。コンサートが終わって、どこのギターと聞きました。タカミネです。

家に戻って、takamine本社に電話を掛けて“クロード チアリと申しますがギターを作っていただきたい”と申し上げました。先方の方は当時の専務でして、今は社長になりましたが、本人は冗談だと思いました。僕のレコード沢山持っておられて、まさかあのチアリが、でも明くる日工場まで行きまして、やっぱりあのチアリでした。

ギターを作っていただき、あれから放したことない。手作りで、私の宝物です。

二本作っていただきましたが息子にも一本頼みまして、彼もtakamineを使っている。

ゴルフコンペで一人のギタリストとの出会い

コンペに誘われて、四国のゴルフ場で、もう一人の音楽家と出会いました。

最初は挨拶程度でしたが、二次会の席で色々と話しまして、僕は演歌はあまり好きではないですが、古賀メロディは素晴らしいと言いました。15年以上の友情と付き合いの始まりでした。あれから、時々、一緒に演奏したり、家族的な付き合いに成りました。

彼は東京でのご自身の知り合いや友達に紹介してくれて、あの二人はライバルの筈なのに

なぜ友達になっただろうとまわりは疑問に思っていたようです。

でも、確かに、アントニオ 古賀さんは大事な友達です。

Chapter

終わりに、今、現在

書きながら色々と思い出して、本当に、今まで悔いのない人生でした。

現在、演奏は息子と共に行っている、そして、彼は一生懸命頑張ってくれている。

心配しているみたい。以前と比べたら問い合わせは少ない、テレビの出演も減りました。

そこで息子が立ち上がった。“親父はまだまだいける!”現在の仕事やテレビなどほとんど息子が取ってくれている。

この本も書いて欲しいと言われて、書き出しました。

娘も息子も心配してくれて、本当に幸せな男だ!

女房も、長年、落ち込んでいる時や、馬鹿なことをした時にも、選挙の時にも支えてくれました。

これからも、家族のために頑張るつもりです、そして僕の音楽が好きな皆さんのためにも決して、コンサートや作曲も最後の最後までやめません。

30数年間の話はこんなに小さい本になりまして、自分でもびっくりしています。

作家ではないですので日本語で書くのは慣れていないですが、読んでいただいた皆さんは僕のことを少し分かっていただいたのなら、幸いでございます。

これからも応援して下さい、よろしくお願いします。

では、また街角か会場でお会いしましょう。

クロード チアリ

 2005年3月16日



もちろんこれからも書きますので宜しくおねがいします